藤井千秋について
藤井千秋(ふじい ちあき/1923–1985)

岐阜県加茂郡白川町に生まれ、京都で育ち、生涯京都を愛し、離れることがなかった。京都市立絵画専門学校(現·京都市立芸術大学)図案科に入学するも、戦争により学徒出陣。終戦の前年(1944年)に同校を卒業する。
戦後、知り合いのアメリカ軍人の勧めで、京都の画廊に水彩画を持ち込み、それをきっかけに出版の仕事にかかわるようになる。1946年[昭和21]末,「少女の友」(実業之日本社)に初登場し、またたく間に戦前の中原淳一に代わる人気の挿絵画家となり、口絵や付録を手がけ、当時の少女たちを魅了した。1955
年[昭和30]『少女の友』の休刊後は、『女学生の小学館)を中心に少女雑誌で大活躍する-『にんぎょひめ』などの童画の世界も描き出した。「女学生の友』『小説ジュニア』(集英社)などがあいついで休刊となった1970年代から挿絵の仕事から遠ざかるが、晩年まで最後の夢を追い求めるように気高い女性像を描き続けた。
少女雑誌や学年誌、童話本の口絵・挿絵を数多く手がけ、戦後の少女たちの心をとらえたことから、「最後の抒情画家」とも呼ばれています。
雑誌だけでなく、レターセットやカード、ハンカチやスカーフなどのグッズにも絵柄が使われ、「千秋プリント」と呼ばれるシリーズは当時の乙女たちのあこがれの的となりました。
少女雑誌での活躍
藤井千秋は、雑誌『少女の友』の専属画家として本格的に挿絵の仕事をスタートさせ、一躍人気作家となりました。その後はフリーとなり、『女学生の友』をはじめとする少女誌・学年誌で活躍。表紙、口絵、目次絵、スタイル画など、多彩な仕事を通じて“戦後の少女文化”を彩りました。
関連リンク:夢みる昭和の乙女たち: 抒情画家、藤井千秋の世界
画風と魅力
藤井千秋の少女たちは、大きく澄んだ瞳とすらりとしたシルエットが特徴です。どの作品にも、気品と可憐さ、そしてどこか凛とした強さが同居しています。
透明感のある水彩の色づかい、やわらかな光の表現、ヨーロッパの街並みや自然を背景にしたロマンティックな構図──。その抒情的な世界は、戦後まもない時代に“遠い国へのあこがれ”や“明るい未来への夢”を、ページを開いた少女たちにそっと手渡していました。
一枚一枚の絵には、物語のワンシーンのような時間の流れが感じられ、見る人それぞれの心の中に続きのストーリーが立ち上がってきます。
「最後の抒情画家」と呼ばれる理由
藤井千秋が活躍したのは、抒情画から少女マンガへと表現の主役が移り変わっていく時代でした。マンガが雑誌を席巻していくなかでも、彼は最後まで、絵一枚で物語と感情を語る“抒情画”のスタイルを貫きました。
そのため、藤井千秋は「戦後を代表する抒情画家」「最後の抒情画家」と評され、今もなお展覧会や画集を通じて、その仕事が再評価されています。
現在へのつながり
藤井千秋が描いた少女たちの表情や色彩は、発表から長い年月が経った今も、古びることなく新鮮な魅力を放ち続けています。レトロでどこか懐かしいのに、現代のイラストレーションやマンガ、アニメーションにも通じる感性があり、多くのクリエイターやファンに影響を与えています。

このサイトでは、そうした藤井千秋の作品世界と足跡を、できるかぎり丁寧に紹介し、次の世代へとつないでいきます。

